レタープレス株式会社の前身「増田兄弟活版所」。今の広島市中区の本通りに広島随一の活版印刷所として存在していた。その代表 増田直吉はどのような人柄だったのか?
今も社員の行動指針 -Our Value- に想いが引き継がれる「奮闘努力」 とは?その当時を知る社員が大正時代の『増田兄弟活版所』を語る。
印刷 ひろしま -昭和41年8月10日 発行-
業界の大久保彦左的存在の【故】増田直吉氏のことども ※1
増田兄弟活版所々主故増田直吉氏について語るべく私に白羽の矢が立った。 増田兄弟活版所は明治二十四年一月の創立でありまして、私のように大正の末年に印刷界に身を投じた者は、明治・大正年間に業主として活躍された故増田直吉氏の全貌を云々するには正直いって資格が欠けているのであります。 私よりも長く、そして詳しく増田直吉氏をご存知のお方が広島にはまだまだおいでのことと思います。そのお方には後日語って頂くとして、私は一従業員から見た晩年の増田直吉氏の片鱗の二、三を述べさせて頂いてその責を果たしたいと思います。
塩屋町通り(現在の赤バス※2本通り停付近)にづぼらさんが書いた「奮闘努力」という大きな看板を掲げて営業をされている活版所があった。 その門べ※3を黒い詰襟姿のかっぷくのよい大きな男の人が毎朝掃除しておられるのを見かけたものである。 この活版所が増田兄弟活版所であり、この人こそ所主増田直吉氏なのである。 増田直吉氏は最初広島県巡査を拝命、後ち前記塩屋町において活版所を設立、爾後※4舎弟と共に兄弟一致、奮闘努力をモットーに鋭意事業の拡張伸展を企図されたのであります。
然しその行路は決して坦々たるものではなく明治三十年十一月八日一従業員の過失により一夕灰燼※5の憂き目に遭遇されたこともあったのですが不撓不屈、幾多の困難をもよく克服され、遂に大阪以西屈指の大活版所の基盤を築かれたのであります。 その間、県・市会議員をも勤められたとか、又広島印刷業組合顧問として業界の進展に寄与される等めざましい公私の活動をなされたのであります。
私が文選工※6として入社したのは昭和四年一月十一日、まず入社して驚いたことは永年勤続者の多いこと、(五年、十年はザラ、なかには二十年という人もおられた)と、業主増田直吉氏と舎弟乙吉氏(工場長)とのピッタリ呼吸の合ったその経営ぶりであった。動と静、陽と陰、増田直吉氏は動・陽の大きな存在であった。
当時の工場内の配置は、北棟の道路に面して機械部、その奥が植字部、校正部、そして解版部※7、その奥に土蔵があって階下が製本部、階上、階下共に紙置場(紙は大阪の問屋より直送)南棟の道路に面して事務所、その西奥は階上、階下とも文選部、鋳造部※8は階上、中央通路正面にステロー部、そして従業員の顔触れは多士済々、まことに気鋭の人が多かった。
往年の活版親友会は増田活版所が中核だった故にか、幹事長の小田松太郎氏をはじめ、元幹事長、幹事を歴任された方が沢山おられた。 何しろ当時広島で五十人以上の従業員を擁しておられた活版所は増田だけだったと思う。
増田直吉氏は「自分は人の悪い点は見たくない」とつね日頃口癖のように洩らしておられた由、それ故にか工場内をことさらに革のスリッパをバタンバタンと大きな音を立てて廻っておられた。 私が入社して日浅いある日のことであった。 「バタン、バタン」西側の階段から例の大きな音が聞えて来た。そしてピタリ鋳造場の入口でとまった。 私が文選をしていた六号活字場はコの字形で、鋳造場とは板囲いで仕切ってあった。私はちょうどその時電灯をつけて文選していたが発作的にスイッチを切った。やがてバタンバタン足音が六号場に近づいた●(原文読めず)ヒョイと顔を出して 「のう、おやじが来たと思うて電気を消さいでも●(原文読めず)うガン」 こういい捨てて東側の階段からおりてゆかれた。 これには一本参った。まさか板囲いの向うから自分のしぐさをチャンと読まれようとは「恐ろしいおやじだナァ」と、若い私の脳裡にきざまれた第一印象であった。
若い同じ年配の二、三人と或る日のこと、直吉氏の姿をみとどけて事務所へ駆け込んだ。 「おじさん、給料をあげてつかあさい」 「なんの、あまげなァ」 と一喝??ジロリ一同の顔をみまわされた。やがて 「ようがん、これに名前を書きなさい」 といって紙を出された。 翌月にはチャンと昇給してあった。 私の生涯、最初のそして最後の直訴の懐かしい想い出である。 増田直吉氏は酒が大変お好きだった。よく賀茂鶴の菰包みの四斗樽※9が、天神町の中村久吉商店から取寄せられたものだった。
増田直吉氏は人をよろこばす人であった。そして微醺を帯びられては、よく漢詩を高吟された。 「奮闘努力は増田の看板のぅー頑張ってつかいよ」 と、従業員にいつもいっておられたものだった。
「のう、のう、これを三日間で文選してみない。できみょうがい」 と、ニコニコ笑いながら私達のところへ来られた。 「のう、やってみない。これをあんた達で配分しない」 と、いって金一封を下さった。入社日浅い私はめんくらった。 可能ということをちゃんと知っていながら、知らぬふりして予期せぬ注文があったときには、こうしてよく文選場へ来ては従業員を喜ばされたものだった。 寒くなると豚汁や、甘藷の蒸したのをよく従業員にふるまわれた。甘藷などはみずから配って廻られた。 「芋か」と、いおうものなら金輪際モウ駄目、 「おじさん、おじさん」 といって縋りつくようにまつわると大変なご気嫌、 「のう、のう、そんなに押しなんナ」と、いいながら嬉しそうに慈顔を湛えられるのであった。
増田直吉氏は信仰心の篤いお方であった。 毎朝、数珠を片手に高松悟峯和上のおられた細工町の西向寺※10へ晨朝法話を聴きに通っておられた。 また髑髏をいたく愛された。ときたま従業員に談話される時なぞ、いつも傍に髑髏を置いておられた。 日常坐臥、死というものをいつも凝視しておられたように私は思う。 「飲めば酔う きれば血が出る ウーン いやァ向西館」 従業員はいつも、この座右の言をよく聞かされたものだった。 注‐向西館とは火葬場のこと
昭和六年九月十七日、私達が出勤してまのない頃、卒然として増田直吉氏は倒れられた。 私はあわてて小町に住んでおられる舎弟乙吉氏を呼びに駈けだした。 「兄さん、兄さん」 と、直吉氏を呼びつづけられる舎弟のこえ!こえ!! 従業員一同翁然として白装束で棺側に侍し、こもごも棺を担って蜿々葬送したのであった。 私はこの年ごろになって先代増田直吉氏は、ほんとうにお偉い方だったとしみじみ思うのである。 散る桜 残るさくらも 散るさくら※11 お互いに天職に励みたいものであります。
語句解説
(1)<ことども>
事柄、人柄。 増田直吉氏の事柄(人柄)
(2)<赤バス本通りバス停付近>
赤バス 広島バス株式会社のバスの通称(赤いバス)
現在 広島県広島市紙屋町2丁目付近
(3)<門べ>
かどべ【門辺】 門のほとり。門のそば。
(4)<爾後>
じご【爾後】 ある事があってからのち。そののち。それ以来。以後。
(5)<一夕灰燼>
いっせき-かいじん 跡形もなくすっかり焼けてしまう。
(6)<文選工>
文選工 活版印刷において、原稿に書かれた字について活字を探す専門の人を文選工と言う。
植字工 その活字を印刷するサイズに当てはめる仕事をするのが植字工の仕事。
(7)<解版部>
印刷の済んだ活字組版を解いてばらばらにする部署。
(8)<鋳造部>
活字を鋳造(作る)するための部署。
(9)<菰包みの四斗樽>
菰包み 菰(こも)【ワラのようなもの】で物を包むこと。
四斗樽 72リットル
(10)<西向寺>
現在の広島県広島市中区大手町1丁目にある西向寺
(11)<散る桜 残るさくらも 散るさくら>
江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、良寛の辞世の句。
『今、散っている桜も、現在 満開の桜も、必ずもうすぐに散る桜になってしまう』という意。
これは景色の中で桜の『生』と『死』を対比することで、より人間の『生』ということの輝きを強く感じることが出来るという意味。